中都(北京) 大都(北京) 上都 平安京 江戸城を比べてみた

万里の長城
©いらすとや.

冬の北京オリンピックが始まりました。スポーツには全然興味がないけど「北京」からみで今回の記事を。
北京といえば、その名のとおり「北の首都」で、昔の中国は中原を取ったり取られたりの歴史だったのに、なんであんな北の辺境に都を置いたのか不思議だけど遊牧民に侵攻がからんでる。

現在の北京の辺りは昔の中国人にとっては(夏は暑いが)寒くて北から蛮族に侵攻される住みにくい辺境ではあったけど北方の遊牧民たちからすれば南の温かい土地。そこで10世紀にモンゴル遊牧民の国家である遼(契丹)は南京(南京析津府)を置いた。次に女真族(後の満州族)の国である金は12世紀に中都を置いた。モンゴル帝国(元)が金を滅ぼすとの元は大都を置いた。金の中都も現在の北京だが、元の大都とは位置がずれていて城周が南西の角で一部かぶる程度。城の外郭も含めれば半分に満たない程度かぶるみたい。中都は、紫禁城からは南西方向で、天檀の西、北京動物園の南に中心が位置していた。

北方遊牧民族の国家が中国に侵攻して置いた都だが、その後の明朝は朱元璋が南京出身ということで最初は南京を首都としたものの15世紀の靖難の変で永楽帝が北京に遷都したし、満州族の国家である清朝(後金)も最初は本拠地の盛京(瀋陽)に都を置いたものの17世紀半ばに中国に侵攻して北京に遷都している。


金の中都 (紫線の外枠は外郭の想像域)
右上の故宮博物院は大都の宮殿の場所。この宮殿は大都以降の城郭の中心的建物(紫禁城)。

元 大都 (北辺は土塁があることからおおよそ正しいと思われる城郭 外郭は不明)
紫禁城は大都の宮殿を改築したということと大都の宮殿は城郭の中央南部に位置したということなので場所は変わってなさそう。モンゴル人の支配者はこの中国式の宮殿を使わなかったということだが。
明朝と清朝では、宮殿(紫禁城)の位置は変わらずで城郭は大都の城郭をそのまま半分ほど南にずらした位置になる。
十分に巨大な城郭だが唐の時代の長安よりはひと回り小さい。

元の時代は大都(冬)と上都(夏)を季節で移動するという遊牧民らしい都間の移動があったみたい。上都はモンゴル帝国のフビライ/クビライが南宋に侵攻する際の拠点にし、後に大都に遷都。
上都は大都からほぼ真北に270kmほどの位置にあった。上都は砂漠寄りの草原の中にあるので現代人にとって住みやすい場所ではない。現在も全くの人外の地。(ユネスコの世界遺産になっていて開発できないというのもありそうだけど)


元 上都 (紫線の外枠は外郭)
フビライ自身は外郭に蒙古式の建物を作ってそこに居たという話があるようです。
現在は荒涼とした草原なので1辺2.4kmのほぼ正方形の土地は広大に感じるが中都や大都とくらべるとその城郭はずいぶんと小さい。南宋攻略の軍事基地ですが前線からは遠く離れた場所で攻められることは想定していなかったのか城郭の外も盛大に使っていたという話があります。

東方見聞録で有名なマルコ・ポーロは元への使節として夏の都である上都に訪問している。この上都の英語名はXanadu(ザナドゥ)。ザナドゥといえば「がとらぼ」世代の人はOlivia Newton Johnの歌をすぐに連想してしまう。


日本 平安京
平安京は結構大きな街だと思ったがモデルとなった長安城の3割に満たないサイズなので当然ながら大都よりはだいぶ小さい。まぁ平安京は城郭都市ではないので比べるのはヘンだが。

日本 江戸城
江戸城も比較してみた。江戸城は外曲輪でみると結構広い縄張りだと思ったが、ざっくり21km2ということらしいので平安京よりひと回り小さいみたい。(平安京を23.4km2とした場合)
なお、この21km2に八丁堀とか日本橋の東側(隅田川近く)が含まれているかは不明。