小谷城・大嶽城 その1

前回は登山道を登るだけで体力を使い果たし小谷城の郭部入口直前で引き返すという情けない事態になってしまった。ちょうど1ヶ月あいてしまったが今回は満を持して車で登ることに。

小谷城 1
国道365号線と清水谷への道が交わる郡上南交差点にあるファミリーマート湖北小谷店から小谷城の看板方向を撮る。看板のある山は小さくて低く見えるがこれは山の端っこ。小谷城から大嶽城(おおづくじょう)まで進むと左に見えている山頂まで登ることになる。

小谷城 2
小谷城への車道の入り口は狭い。バスは進入禁止らしい。

小谷城 3
既に山の上。駐車できる場所は撮影地点の後ろ。ここからは徒歩で登る。

小谷城 4
前回はここまで来て引き返した。この写真も前回の使い回し。でもこの地図は重要。

小谷城 5
看板のところで左を向いた。右奥に進むと徒歩用の登山道を下山することになる。
左上に登ると金吾丸。

小谷城 6
金吾丸跡の立て札。
大永五年(1525)六角高頼が小谷城を攻めた時、越前の朝倉金吾教景(のりかげ)がここに布陣したと言われ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けられたと伝えられる。四段の曲輪と土塁からなる。
浅井・朝倉の縁はここから?

小谷城 7
小谷城の斜面にある階段はこれが多い。整備していただいてることは非常にありがたいのだが、この階段は1段が高すぎる上に出っ張りに躓きやすくとんでもなく登りにくいんだけど。

小谷城 8
金吾丸に到着。山の上の広場。四段の曲輪と土塁というのはよくわからない。

小谷城 9
登ってきた階段を下って地図の看板まで戻り、今度は地図看板の右側に進む。すぐに小谷城の城郭部入り口の番所跡。番所跡はただの空き地。

小谷城 10
番所跡から次の御茶屋跡の途中に小谷城では数える程度しかない山の外の景色が見える場所がある。
中央の小さな山の上には鉄塔があって、山の左に尻尾が延びてるので虎御前山と思われる。向きは南西。奥はわかりにくいが琵琶湖。

小谷城 11
御茶屋跡。元は広い平地だったのだろうが鬱蒼としている。
この辺りは地面に丸い糞のようなものがたくさん転がっている。熊の他にカモシカが出るとのことだがカモシカは見かけず、代わりにウサギの姿が見える。糞はカモシカかウサギだろうか。

小谷城 12
御茶屋跡の説明。
番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。「御茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事施設である。

小谷城 13
軍事施設であるとのことだが奥にはに庭園があったらしくその名残の庭石?

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御茶屋跡の次は馬洗池と御馬屋。
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。西隣りに土塁で囲った馬屋があり北の柳の馬場に通じており馬関係の一画である。
(柳の馬場=桜馬場?)

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馬洗池。四角い池で大きくはない。説明によると名前に反して馬を洗う池ではなく1段上の桜馬場への石垣を防御するための水堀とのこと。

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馬洗池の左にはかなり広い平地。ここが御馬屋。

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御馬屋の説明。
三方を高い土塁に囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり本丸を守るための曲輪である。ここから、清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。

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想像図。
御馬屋は中央より少し左で「井戸」があったであろう辺りにこの説明板があるみたい。

小谷城 19
馬洗池の横を通り上の桜馬場までの途中に外の景色が見える地点がある。南向き。
中段を右から伸びてきている山が石田山。その山の写真中央あたりに横山城があるのではないかと。写真の中央から左寄りで山が切れた辺りが姉川古戦場の筈。

小谷城 20
首据石。
黒金門跡の手前にあり、天文二年(1533)一月、初代亮政(浅井亮政あざいすけまさ)は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。

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