小谷城・大嶽城 その4

小谷城 61
小丸跡
二代城主久政が引退した後に居住した所と考えられている。天正元年(一五七三)八月二十七日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により四十九歳を一期として自刃した。

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小丸と山王丸の間に大規模な石垣がある。その通り道部分の石垣は崩れている。

小谷城 63
山王丸への順路から見える部分も上の方はなんとか石垣の形を保っているけど崩れてきそうにも見える。

小谷城 64
このベンチ付きの道標に従うと山王丸・六坊方向に行けるが、小谷城の大石垣を見逃すことになる。何故かこの近辺に大石垣への案内が無い。大石垣を観たいならこのベンチ付き道標を無視して直進。

小谷城 65
ほどなく大石垣の案内。そして少し広い平地に出る。

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大石垣
小谷城でもっとも壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約五mを測り、その規模は本丸を上回る。現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時に(原文ママ)姿を偲ぶことができる。

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縮小した写真だとイマイチだが、この面は本格的な石垣が良好な状態で残っている。

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ベンチ付き道標まで戻り左に向いたところ。石垣が崩れているのでとても歩きにくいというか登りにくい。足首傷めないよう注意。

小谷城 69
この辺りから登城者が少なくなるのか地面の草が増え道が細くなる。

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既に本丸から400m以上離れているらしい。そこが山王丸。

小谷城 71
山王丸跡
山王丸跡は四段からなり最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていた。小谷城の詰めの丸(戦時に立て篭もる建物?)と考えられている。小谷城絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道(裏道)が描かれている。

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山王丸(さんのうまる)
標高約400mに位置する小谷城の詰の丸(つめのまる)。南側に馬出(うまだし)を配し、鎌刃城と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。南側の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。南側正面石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図の裏(上側)に当たる東斜面には、今も大石垣(5つ前の写真)が残っている。

実はこの説明を読んで大石垣の位置が解ったので(帰路に)石垣を見に行った。(写真の順序は調整している)

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それなりに広い。

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山王丸で一番高くなった場所。土塁っぽいが石で固めてある。

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その上に登って撮ってみた。奥の方は藪だけど順路。

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山王丸から六坊までは少し距離がある。そして、途中の道はかなり悪い。岩場や土の斜面があるので滑り止めのしっかりしたスニーカー以上登山靴未満が必須。
一箇所だけ東方向を見通せる場所がある。

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六坊は細長い平地。

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六坊(ろくぼう)
浅井久政(2代城主)の時代、領国内にあった6つの有力寺院の出張所が置かれたところ。南北に削平地が5、6段連なる。西側(図の下側)には腰郭が確認でき、図にはないが東側には堅堀数本が掘られている。南側の土段には石垣が見られる。(堅堀は「かたぼり」ではなく「たてぼり」、上下方向の堀 竪堀)

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この辺りからこのタイプの道標が目につくようになる。怪我をして動けなくなって電話で救助をを請う時はこの道標の上部に付いている番号を知らせると救助隊の向かい先が解りやすいらしい。
六坊から大嶽城(おおづく)まではおよそ600m。

小谷城 80
上の道標近くで道が交差している。直進すると大嶽城、左折すると清水谷に降りることになると思われる。(下山の近道)
「(本丸跡|駐車場)へは戻れません」というのはどういう意味かと思ったが、山の上の駐車場に車を停めた人が左折して清水谷に下山したら東側追手道からもう一度登山しなくてはならないということらしい。
右折すると月所丸(げっしょまる)。

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